オンラインの便利さと違和感
京都の法学部時代に所属したゼミの同窓会が、先日、オンラインで開催されました。米寿を迎え、更に研ぎ澄まされた学究心で新たな法学書を出版された、恩師・奥田昌道先生をはじめ、法曹界を中心に全国で活躍する先輩や仲間たちと、山口にいながら、ネットの画面上で一堂に会することができ、若かりし青春の思い出に包まれながら、新たな活力を得られたひとときでした。
オンラインで人とかかわることの利点として、飛沫や接触による感染を防ぐことができるだけでなく、移動にかかる時間や費用を節約できることなどがあげられます。一方、パソコンやスマートフォンの画面に映る相手の姿をみて、実際に会うときと異なり、目線が定まらなかったり、ソワソワとした緊張感をおぼえてしまったりするのは、きっと、私だけではないはずです。
新型コロナ禍で、オンライン診療が注目されつつあります。たしかに、多忙な患者さんにとっては、便利な制度なのかもしれません。また、感染拡大リスク抑制の観点からも、有効かもしれません。しかし、診察の大原則は、患者さんの身体を直接見て、聴いて、触れることだと、私は考えています。オンライン診療では、この大原則が抜けてしまうことになります。たとえば、咳が出るとの訴えのある初診の患者さんについて、その症状が、感染症によるのか、心臓や気管支の喘息によるのか、肺の病気によるのかなど、オンラインでのやりとりだけでどこまで見分けることができるのか、疑問に感じます。
診察の「診」という漢字は、身体全体を細部まで評価し、判断することを意味します。そして、その実現には、患者さんと医療者との信頼関係が基本となります。オンライン診療に、そうした信頼関係を違和感なく構築できる、または持続発展させることのできる確証があれば、また、言葉で表現しにくい症状を、患者さんの訴えだけで客観的に正しく評価しうるツールができるのであれば、その未来に、少しは期待できるでしょうか。