「ねじ式」と追悼
その人を知ったのは、京都での学生時代、書店で何気なく手にした漫画雑誌でした。月刊誌の「ガロ」は、「ジャンプ」「マガジン」「サンデー」といった小中学生のころに読みあさった週刊誌とは、明らかに趣を異にしていました。飾り気のない、そもそも万人受けする気がないのではないかと思わせる装いのその雑誌のページをめくると、そのころすでに伝説的な漫画家となっていた、つげ義春の特集が組まれていました。
日常のリアリズムをつきつめた作風に潜むペーソス、1コマごとに滲む身を削るような筆致、そして、生きるということの高揚なき喪失感。食い入るように読むうち、いつしかその世界観にドップリとはまっていました。「紅い花」「ほんやら洞のべんさん」「ゲンセンカン主人」「リアリズムの宿」「無能の人」など、もとより寡作な作家ですが、代表作といえば枚挙にいとまはありません。
このうち「ねじ式」は、「メメクラゲ」に左腕の血管をかまれて切断され、医者をさがし歩く「ぼく」が主人公の短編です。当時、法律相談部の仲間たちと入り浸っていた百万遍のバーの店名も「ねじ式」だったため、作品に寄せる親近感もひとしおでした。狐のお面をかぶった少年、住宅街に突如出現する機関車、金太郎飴ビル、そして、ビルの中の謎の女医。不条理な非現実世界が次々と展開されていくのに、どこか懐かしい日常を思わせる妙。それは、つげ義春の描く世界が、歪んだ鏡に写った現実にほかならないからであるような気がします。
先日、そんなつげさんの訃報を知りました。つげさんは、漫画だけでなく、旅のエッセー集もいくつか残しています。「貧困旅行記」や「つげ義春の温泉」を読むと、鄙びた地を好み、つげさん自身の人生を重ねるような旅の様子をうかがい知ることができます。栃木県の北温泉など、これまでいくつかその足跡を訪ねてきましたが、あらためて、追悼の意をもって再訪し、現実と虚構の間にあるつげワールドに浸かってみたい。初夏を誘う薫風が、その思いをより強くさせるのでしょうか。
